痛みを分かち合う?
毎回、久しぶりだといってブログ書いてますね。
ここ数日つぶやくこともできず、なんだかんだといって忙しくてよろしくないです。
忙しいという字は、心を亡くすと書く、とか思わずつぶやいてしまったりしそうです。
はぁ、やることばかりなんですが、どうもやる気がまったくついてこない、というのが問題です。
夏休みの調査から帰ってきてから時差ボケが酷くて、もう使い物にならなかったんですが(こんな酷い時差ぼけは初めての経験)、それだけではなくて、何というか気力自体が絞り出そうとしてもなかなか出ない感じです。
以前なら暇があれば本を読んでたんですが、最近は本を読むのも面倒というか。現在に関する情報は書籍ではスピードが遅いというか、結局ネットの動画を見たり、情報を読んだりしているうちに無為に時間がすぎてしまいます。無為にする時間なんかないはずなんですけどね。じっくり考えたいことについての書籍はあまりにない、という気がします。
311以前の世界って本当に呑気で、今振り返っても蜃気楼みたいに思えます。
いろいろ問題はありましたけど、それでも今進行していることに較べれば、呑気だったなぁと。
今、そう感じないで済んでいるひとは、とても幸せなのだと思います。
全世界に愚痴を公開しても仕方ないので、前向きにいきたいとは思いますが、311以降、もっとちゃんといろいろと個人的な書きもの(論文とかじゃなくて、ブログとか日記で構わないのだけど)をしておけばよかったなという気がします。わたしたちのこの経験って、後世にどう位置づけられるんでしょうか。まぁ政府の対応や政策がどう評価さえるのかは、諸外国の報道を見ていたら、はっきりはしていますけどね。
全国の水道水から、10月7日以降再び、セシウムやヨウ素がでてきていますね。
厚生労働省のページのこれですが。
原因はなんでしょうか?
瓦礫も腐葉土も海洋汚染も、日本の国土全てに放射能を撒き散らすにじゅうぶんでした。これを「福島の痛みを分かち合う」と表現するひともいますが、福島のひとたちからも安全に食べられる食物や水、そして移住しようと思ったときの安全な土地を奪うことになったんじゃないかなと思わずにはいられないのです。
こういうことをいうと批判されるかもしれませんけどね。でもできれば、自分も批判する側にまわれるほど、楽観的な見通しをもちたいです。批判できる相手のことを羨ましく思います。
わたしたちの前にはすでにチェルノブイリの経験がありますから、これから起こることはほとんど予測がつきますよね。それを避けることができなかった無力な自分と無策な政府に、苛立ちを隠せないです。今の相対的な「安全」が作業員の被曝のうえに成り立っていることや、わかっているのに子どもたちにさえ健康や安全を確保してあげられないことを含め、ありていな言葉でいえば辛いです。今、安全だと思えるひとが心底羨ましい。
ここ数日つぶやくこともできず、なんだかんだといって忙しくてよろしくないです。
忙しいという字は、心を亡くすと書く、とか思わずつぶやいてしまったりしそうです。
はぁ、やることばかりなんですが、どうもやる気がまったくついてこない、というのが問題です。
夏休みの調査から帰ってきてから時差ボケが酷くて、もう使い物にならなかったんですが(こんな酷い時差ぼけは初めての経験)、それだけではなくて、何というか気力自体が絞り出そうとしてもなかなか出ない感じです。
以前なら暇があれば本を読んでたんですが、最近は本を読むのも面倒というか。現在に関する情報は書籍ではスピードが遅いというか、結局ネットの動画を見たり、情報を読んだりしているうちに無為に時間がすぎてしまいます。無為にする時間なんかないはずなんですけどね。じっくり考えたいことについての書籍はあまりにない、という気がします。
311以前の世界って本当に呑気で、今振り返っても蜃気楼みたいに思えます。
いろいろ問題はありましたけど、それでも今進行していることに較べれば、呑気だったなぁと。
今、そう感じないで済んでいるひとは、とても幸せなのだと思います。
全世界に愚痴を公開しても仕方ないので、前向きにいきたいとは思いますが、311以降、もっとちゃんといろいろと個人的な書きもの(論文とかじゃなくて、ブログとか日記で構わないのだけど)をしておけばよかったなという気がします。わたしたちのこの経験って、後世にどう位置づけられるんでしょうか。まぁ政府の対応や政策がどう評価さえるのかは、諸外国の報道を見ていたら、はっきりはしていますけどね。
全国の水道水から、10月7日以降再び、セシウムやヨウ素がでてきていますね。
厚生労働省のページのこれですが。
原因はなんでしょうか?
瓦礫も腐葉土も海洋汚染も、日本の国土全てに放射能を撒き散らすにじゅうぶんでした。これを「福島の痛みを分かち合う」と表現するひともいますが、福島のひとたちからも安全に食べられる食物や水、そして移住しようと思ったときの安全な土地を奪うことになったんじゃないかなと思わずにはいられないのです。
こういうことをいうと批判されるかもしれませんけどね。でもできれば、自分も批判する側にまわれるほど、楽観的な見通しをもちたいです。批判できる相手のことを羨ましく思います。
わたしたちの前にはすでにチェルノブイリの経験がありますから、これから起こることはほとんど予測がつきますよね。それを避けることができなかった無力な自分と無策な政府に、苛立ちを隠せないです。今の相対的な「安全」が作業員の被曝のうえに成り立っていることや、わかっているのに子どもたちにさえ健康や安全を確保してあげられないことを含め、ありていな言葉でいえば辛いです。今、安全だと思えるひとが心底羨ましい。
普通の子ども!?
今日は31日。いろいろなものの、締切日ですねorz 頑張ります…。
それはさておき。福島の子どもが「わたしは普通の子どもが産めますか?」といった発言を取りあげたアエラ(2011年8月29日号「普通の子供 産めますか」)、ネット上で叩かれたりしていますね。確かに「普通の子ども」という概念は問題含みですが。
ただ、自分の(被曝)のせいで、将来の子どもに影響が出たらと考える女の子を傷つけるような方向に流れないことを祈るばかりです。単純な障害者差別に還元してしまったら可哀想だ(女のひとが子どもの健康や将来に多大な責任をもたされる社会で、子どもの出生に関して「自分のせいではないか」と責める女のひとはたくさんいる――実際にどちらが原因であるかなんかわからないのですが――し、子どもの将来を考えると本来原発が爆発しなければなかったかもしれない重荷を子どもに背負わすことは心の痛いことであることもまた事実)。こういう事態がなんで出てきたのかを考えると、本当に腹立たしい限りですが。
関係ありませんが、水俣病のときの「わたしゃ愛も知らん、恋をしたこつもなか。水俣病がさせた。おなごなのに男になって暮らしてきた」の被害者の発言(ネット上で拾ったので正確じゃないかもしれません。VTRでも何度かみたのでだいたいあっているとは思うのですが)が無条件で繰り返されてきたことには、複雑な思いを抱いています(短く「おなごの幸せを返して」といった、というようにまとめられることも多かったように思いますが)。もちろん、当事者の方の気持ちを考えるとその通りだろうと無条件で思うのです。深く頷く。しかし「水俣のせいで『女の幸せ』を逃した悲劇」というような、そういった取りあげられ方には違和感を感じてしまいます…。とてもわかりやすいのですが、でも発言の一部をそのように取りあげるって、当事者の痛みを換骨奪胎してしまわないのかなとも疑ってしまったりもします。
選挙も終わりましたね。心浮き立たない顔ぶれでした。こういうときこそ、日頃からよくいわれている首相権限で大胆に事態の収束にあたってくれる指導者を求めてしまう気がしますが(危険だけど)、肝心なときには手をこまねいているだけで、利害関係を調整しているうちに多くのひとびとが被曝し、住む場所を失い、仕事をなくし、財産もなくなって、健康や命を危険にさらしていると考えると考えると、本当に政府に対する失望は大きくなるばかり。あんまり言いたくないですが、国際社会で日本は批判に晒されるのも当然だとも思います。放射能汚染は他国にも、確実に迷惑かけているわけですしね。そのなかで利害関係の調整に終始し、原発利権をどう守るかに腐心しているように傍からは見える。成田空港で「日本の応援有難う」的な広告をたくさん見ましたが、ちょっと恥ずかしかったです。その段階はもう終わった…。加害者の自覚ももたないと、世界の眼はもっと厳しいと思います。
それはさておき。福島の子どもが「わたしは普通の子どもが産めますか?」といった発言を取りあげたアエラ(2011年8月29日号「普通の子供 産めますか」)、ネット上で叩かれたりしていますね。確かに「普通の子ども」という概念は問題含みですが。
ただ、自分の(被曝)のせいで、将来の子どもに影響が出たらと考える女の子を傷つけるような方向に流れないことを祈るばかりです。単純な障害者差別に還元してしまったら可哀想だ(女のひとが子どもの健康や将来に多大な責任をもたされる社会で、子どもの出生に関して「自分のせいではないか」と責める女のひとはたくさんいる――実際にどちらが原因であるかなんかわからないのですが――し、子どもの将来を考えると本来原発が爆発しなければなかったかもしれない重荷を子どもに背負わすことは心の痛いことであることもまた事実)。こういう事態がなんで出てきたのかを考えると、本当に腹立たしい限りですが。
関係ありませんが、水俣病のときの「わたしゃ愛も知らん、恋をしたこつもなか。水俣病がさせた。おなごなのに男になって暮らしてきた」の被害者の発言(ネット上で拾ったので正確じゃないかもしれません。VTRでも何度かみたのでだいたいあっているとは思うのですが)が無条件で繰り返されてきたことには、複雑な思いを抱いています(短く「おなごの幸せを返して」といった、というようにまとめられることも多かったように思いますが)。もちろん、当事者の方の気持ちを考えるとその通りだろうと無条件で思うのです。深く頷く。しかし「水俣のせいで『女の幸せ』を逃した悲劇」というような、そういった取りあげられ方には違和感を感じてしまいます…。とてもわかりやすいのですが、でも発言の一部をそのように取りあげるって、当事者の痛みを換骨奪胎してしまわないのかなとも疑ってしまったりもします。
選挙も終わりましたね。心浮き立たない顔ぶれでした。こういうときこそ、日頃からよくいわれている首相権限で大胆に事態の収束にあたってくれる指導者を求めてしまう気がしますが(危険だけど)、肝心なときには手をこまねいているだけで、利害関係を調整しているうちに多くのひとびとが被曝し、住む場所を失い、仕事をなくし、財産もなくなって、健康や命を危険にさらしていると考えると考えると、本当に政府に対する失望は大きくなるばかり。あんまり言いたくないですが、国際社会で日本は批判に晒されるのも当然だとも思います。放射能汚染は他国にも、確実に迷惑かけているわけですしね。そのなかで利害関係の調整に終始し、原発利権をどう守るかに腐心しているように傍からは見える。成田空港で「日本の応援有難う」的な広告をたくさん見ましたが、ちょっと恥ずかしかったです。その段階はもう終わった…。加害者の自覚ももたないと、世界の眼はもっと厳しいと思います。
ご無沙汰です。
ご無沙汰しています。コメントいただいた方がいらっしゃるのに更新できず、心苦しく思っていました。しかし、年度末の会計(科研の締め切りが10日までだった)をやっと終わらせた11日に職場にいるときに地震に遭遇してから、あまりに目まぐるしい日常に、ブログを書く暇も気力もなくなっていました。
本当に激動でしたね。いや、まだ全然被災者の方々の生活は落ち着いていないし、福島の状況も終わったとはいえない。それどころか8月の地震で、いっそう放射能漏れが酷くなっているようですね(もう日本の報道を信じていないので、日本のニュースはきちんと追っていないのでテレビではどう報道されているか知りませんが。地震が起きたときには、アメリカにいたし)。
地震が起きた日は、なんとかiPhoneで帰り道を見つけながら、自転車を買って、サンダル履きで帰りました。どうしても帰らねばならず、9時近くに自宅付近についたときには、心底ほっとしました。ツイッターが機能していたので、JRがすぐには動かないことほか、かなりの情報が得られてほっとしました。家についたら津波の映像が繰り返し映し出されていて、本当に胸の痛いことでした。
それから次の日すぐに懐中電灯を買って、講演のキャンセルをし(そもそも電車が動いていないのでいけないのですが、電話もつながらず、メールの返事も来ず…担当者も職場にいけなかったそうです…連絡が取れずに困りました)、またほかの会議をキャンセルするかどうかメールで審議し(もちろんキャンセルしましょうと。被災された方もいらっしゃったのに、会議どころじゃない)、再び生鮮食品などを買って帰りました。停電になったら、冷蔵庫が使えないので、保存食ばかりになる可能性があり、生鮮食品を買っておきたいなと思ったのです。
レジではお米やペットボトルの水を買いだめているひとがいて、東京ではライフラインは生きているんだから、なんか大げさだなーっと横目で見たのを覚えています。結果としてはお米も水も、大げさなんかではなかったのですが…。
もしも原発事故がなければ、助かった命がたくさんあったと思います。今もまた苦しんでいるひとも悩んでいるひとも少なくとも現在よりは少なく、復興に向けて前向きに取り組めただろうと思うと、やりきれない気分になります。表向きには原発による死者はいませんが、…少なくとも救助されず亡くなったひとたちは間接的にはそうじゃないのかと思います。このあたりのことを考えると、本当に胸が苦しくなってくるので、通り一遍ですみません。これ以上、考えるのは辛いです。公式発表とかがあまりに信じられないので(漏れ聞く話とあまりに違うし)。
12日(13日?)にはメルトダウンの可能性をCNNが報じていました。少なくとも放射能は漏れている、と。爆発をいち早く知ったのも海外メディアを通してでした(CNNとBBCは入るので。CNNのほうが「科学的」でした。日本で見られるBBCとCNNの報道は危険を煽る偏向報道ではなかったと思います)と、日本のメディアの落差に眩暈がしました。3月いっぱいには、もうレベル7であることは常識になっていましたし(日本で正式にレベル7になったときに、「えっ、まだなってなかったの」とびっくりした)、ほかの地域にも放射能が飛散していることも明らかになっていましたし、「海のチェルノブイリ」だといわれましたし(わたしはフランスメディアから知った)…ただそういうことの意味がよくわかったのは、とくに海洋汚染に関しては、もう少し時間が必要でしたけれど。
そういう過程で、日頃覆い隠されているひとびとの間の価値観の違いが明らかになってしまっているように思います。何を危険と思い、何を大切だと思うのか。どういう判断をするのか。それはもう神々の闘争だというレベルだと。説得は無理だと思う。このような事態になってもつ人々の判断を変えるのは、生き方を変えろというくらい無理だという気がします。あとは、「交渉」していく、行政に「要望」していくことしかないのではないかと。
ときどきわたしにも原発の必要性を熱く説き聞かせに来る人がいますが、反論もしません。以前から、「原発ジプシー」に支えられているような制度は支持できないと思ってきましたが、今これだけの命と健康を賭けた被曝労働者が生み出されいて、多くのひとが家も土地も職業も健康も(そして命も)奪われているというのに、それでも原発を支持するべきだと説得しに来る人に、語る言葉がない気がするのです。理解不能。できれば国土を分割して別々の国に住めるといいのですけれど…。こちらの国には原発はいらないです。
(コメントをお返ししないとずっと申し訳ない気持ちが離れないので、コメント欄をこれから閉じます。メールやツイッターがあるのでそちらのほうをお使いください)。
本当に激動でしたね。いや、まだ全然被災者の方々の生活は落ち着いていないし、福島の状況も終わったとはいえない。それどころか8月の地震で、いっそう放射能漏れが酷くなっているようですね(もう日本の報道を信じていないので、日本のニュースはきちんと追っていないのでテレビではどう報道されているか知りませんが。地震が起きたときには、アメリカにいたし)。
地震が起きた日は、なんとかiPhoneで帰り道を見つけながら、自転車を買って、サンダル履きで帰りました。どうしても帰らねばならず、9時近くに自宅付近についたときには、心底ほっとしました。ツイッターが機能していたので、JRがすぐには動かないことほか、かなりの情報が得られてほっとしました。家についたら津波の映像が繰り返し映し出されていて、本当に胸の痛いことでした。
それから次の日すぐに懐中電灯を買って、講演のキャンセルをし(そもそも電車が動いていないのでいけないのですが、電話もつながらず、メールの返事も来ず…担当者も職場にいけなかったそうです…連絡が取れずに困りました)、またほかの会議をキャンセルするかどうかメールで審議し(もちろんキャンセルしましょうと。被災された方もいらっしゃったのに、会議どころじゃない)、再び生鮮食品などを買って帰りました。停電になったら、冷蔵庫が使えないので、保存食ばかりになる可能性があり、生鮮食品を買っておきたいなと思ったのです。
レジではお米やペットボトルの水を買いだめているひとがいて、東京ではライフラインは生きているんだから、なんか大げさだなーっと横目で見たのを覚えています。結果としてはお米も水も、大げさなんかではなかったのですが…。
もしも原発事故がなければ、助かった命がたくさんあったと思います。今もまた苦しんでいるひとも悩んでいるひとも少なくとも現在よりは少なく、復興に向けて前向きに取り組めただろうと思うと、やりきれない気分になります。表向きには原発による死者はいませんが、…少なくとも救助されず亡くなったひとたちは間接的にはそうじゃないのかと思います。このあたりのことを考えると、本当に胸が苦しくなってくるので、通り一遍ですみません。これ以上、考えるのは辛いです。公式発表とかがあまりに信じられないので(漏れ聞く話とあまりに違うし)。
12日(13日?)にはメルトダウンの可能性をCNNが報じていました。少なくとも放射能は漏れている、と。爆発をいち早く知ったのも海外メディアを通してでした(CNNとBBCは入るので。CNNのほうが「科学的」でした。日本で見られるBBCとCNNの報道は危険を煽る偏向報道ではなかったと思います)と、日本のメディアの落差に眩暈がしました。3月いっぱいには、もうレベル7であることは常識になっていましたし(日本で正式にレベル7になったときに、「えっ、まだなってなかったの」とびっくりした)、ほかの地域にも放射能が飛散していることも明らかになっていましたし、「海のチェルノブイリ」だといわれましたし(わたしはフランスメディアから知った)…ただそういうことの意味がよくわかったのは、とくに海洋汚染に関しては、もう少し時間が必要でしたけれど。
そういう過程で、日頃覆い隠されているひとびとの間の価値観の違いが明らかになってしまっているように思います。何を危険と思い、何を大切だと思うのか。どういう判断をするのか。それはもう神々の闘争だというレベルだと。説得は無理だと思う。このような事態になってもつ人々の判断を変えるのは、生き方を変えろというくらい無理だという気がします。あとは、「交渉」していく、行政に「要望」していくことしかないのではないかと。
ときどきわたしにも原発の必要性を熱く説き聞かせに来る人がいますが、反論もしません。以前から、「原発ジプシー」に支えられているような制度は支持できないと思ってきましたが、今これだけの命と健康を賭けた被曝労働者が生み出されいて、多くのひとが家も土地も職業も健康も(そして命も)奪われているというのに、それでも原発を支持するべきだと説得しに来る人に、語る言葉がない気がするのです。理解不能。できれば国土を分割して別々の国に住めるといいのですけれど…。こちらの国には原発はいらないです。
(コメントをお返ししないとずっと申し訳ない気持ちが離れないので、コメント欄をこれから閉じます。メールやツイッターがあるのでそちらのほうをお使いください)。
トイレの神様
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
さて年末は紅白を見て、「ほー、こんな歌手がいるのかー」っと感動しながら観てました。
本当に所謂歌謡曲って、聞いてないんだなぁ…。
(いちおう「学生」身分のときは、それなりに聞いてたんだけど)。
しかし男子アイドルの曲の変わらなさというか、昭和テイストって何なのかしらね?
格好いい男の子による自己承認の歌って、メロディーも歌詞の内容も、ずっと変わってない気がするのは、気のせいなのかしら?
懐かしい。
それはさておき。
「恐らく、厳しいだろうなぁ」と思っていてあえて避けていた「トイレの神様」を初めて聞きました。
(ファンのひとがいたら、以降ごめんなさい。読まなくていいですよ)。

濱口國雄の「便所掃除」という詩をやはり思いだしました。
便所掃除
濱口國雄
扉をあけます
頭のしんまでくさくなります
まともに見ることが出来ません
神経までしびれる悲しいよごしかたです
澄んだ夜明けの空気もくさくします
掃除がいっぺんにいやになります
むかつくようなババ糞がかけてあります
どうして落着いてしてくれないのでしょう
けつの穴でも曲がっているのでしょう
それともよっぽどあわてたのでしょう
おこったところで美しくなりません
美しくするのが僕らの務めです
美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう
くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます
静かに水を流します
ババ糞におそるおそる箒をあてます
ポトン ポトン 便壺に落ちます
ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します
落とすたびに糞がはね上がって弱ります
かわいた糞はなかなかとれません
たわしに砂をつけます
手を突き入れて磨きます
汚水が顔にかかります
くちびるにもつきます
そんな事にかまっていられません
ゴリゴリ美しくするのが目的です
その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします
大きな性器も落とします
朝風が壺から顔をなぜ上げます
心も糞になれて来ます
水を流します
心に しみた臭みを流すほど 流します
雑巾でふきます
キンカクシのうらまで丁寧にふきます
社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます
もう一度水をかけます
雑巾で仕上げをいたします
クレゾール液をまきます
白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
静かな うれしい気持ちですわってみます
朝の光が便器に反射します
クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします
便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません
駅員さんによる労働の詩なんですが、この詩に初めて出会った小学生のとき、強烈な印象を受けました。
それは労働の過酷さと尊さの両面を謳いあげているだけではなく(こういうところには素直に感動する小学生だったので)、最後のパラグラフのところです。
便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません
「美しい」で統一されてるけど、一生懸命労働した報酬は、将来の「美しい妻」なんかい!
じゃあ、結婚相手が「美しくない妻」だったら、がっかりして、報われなかったことになるんだろうか。
それってあんまりじゃないの?
と思ったからです。
まぁ捻くれてるていえば、捻くれてますけどね。小学生の自分。
これが例えば「心根の美しい妻」とかなら、欺瞞的だけど、全然OKだったわけですよ。
詩としては面白くないですけどね。
また「便所を美しくする娘は、丈夫な子供をうむ」ならまだましです。
子どもにまで「美しさ」を求められても。
子どもが産まれるのがどれだけ大変なことか知らない立場のひとの呑気ないい分なように聞こえてしまいます。
しかも「娘」ってなぁ…。
何だかなぁ。幾つぐらいを想定しているか知りませんが、30代後半の出産が20代前半の出産数を軽く凌いでいる時代ですから、子どもを産むのは「娘さん」ばかりじゃないんですよね。
しかも母がいうにはっていうこの調子、何だかこういうことをいう男性と結婚したら、嫁姑問題で苦労しそう(って大きなお世話もいいところ)。
また労働の過酷さに、なんというか、「本来女の仕事」である便所掃除を、「男の僕」がやらされているからこそのなにものかが付加されているような気がして、いっそう何というか。
この詩のだいご味は最終パラグラフでありながら、最後の部分が、心のセンサーにひっくりまくりだったのです。
(左翼の男性とわかりあえないと思う瞬間ってこういうときかも)。
便所を美しくする女は
珠のような子供をうむ といわれることを思い出します
僕は男です
光り輝く妻に会えるかも知れません
母が消えたし、詩としてはパンチがなくなるけど、政治的にはまだbetterになった気がしますが、どうでしょうか?
政治的に正しくなると、本来もっていた「ひとに訴えかける力」がなくなることが問題かも。
その部分がなくなったら、この詩の良さがなくなってしまう、ということは、「女をめぐる常識」を不問に付すことなく再生産して、「労働」について謳っているんだなぁって思うのです…。
(それがどーしたといわれれば、それまでですが)。
「気立てのよいお嫁さんになるのが夢だった私」が、「おばあちゃん」に「毎日きれいにしたら、女神さまみたいにべっぴんさんになれる」といわれて、せっせと掃除をしているトイレの神様。
なんだかこの詩に呼応しているように思えます。
この二人が結婚したら、何だかいいカップルだと思いますが、如何でしょうか(と辛酸なめ子風にいってみる。けど「トイレの神様」の娘さんは「便所掃除」の僕は趣味じゃないので選ばないような気がします)。
死んだおばあちゃんがこういってた、
恩返しもできなかった、
語られる家族の情があまりにストレートなので、泣きにくいです。
植村花菜の堂々とした歌いっぷりが素晴らしく、かえって「確信犯なのかなぁ」と思わされ。
捻くれてますねぇ。
ファンのひと、ごめんなさい。
今年もよろしくお願いします。
さて年末は紅白を見て、「ほー、こんな歌手がいるのかー」っと感動しながら観てました。
本当に所謂歌謡曲って、聞いてないんだなぁ…。
(いちおう「学生」身分のときは、それなりに聞いてたんだけど)。
しかし男子アイドルの曲の変わらなさというか、昭和テイストって何なのかしらね?
格好いい男の子による自己承認の歌って、メロディーも歌詞の内容も、ずっと変わってない気がするのは、気のせいなのかしら?
懐かしい。
それはさておき。
「恐らく、厳しいだろうなぁ」と思っていてあえて避けていた「トイレの神様」を初めて聞きました。
(ファンのひとがいたら、以降ごめんなさい。読まなくていいですよ)。

濱口國雄の「便所掃除」という詩をやはり思いだしました。
便所掃除
濱口國雄
扉をあけます
頭のしんまでくさくなります
まともに見ることが出来ません
神経までしびれる悲しいよごしかたです
澄んだ夜明けの空気もくさくします
掃除がいっぺんにいやになります
むかつくようなババ糞がかけてあります
どうして落着いてしてくれないのでしょう
けつの穴でも曲がっているのでしょう
それともよっぽどあわてたのでしょう
おこったところで美しくなりません
美しくするのが僕らの務めです
美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう
くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます
静かに水を流します
ババ糞におそるおそる箒をあてます
ポトン ポトン 便壺に落ちます
ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します
落とすたびに糞がはね上がって弱ります
かわいた糞はなかなかとれません
たわしに砂をつけます
手を突き入れて磨きます
汚水が顔にかかります
くちびるにもつきます
そんな事にかまっていられません
ゴリゴリ美しくするのが目的です
その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします
大きな性器も落とします
朝風が壺から顔をなぜ上げます
心も糞になれて来ます
水を流します
心に しみた臭みを流すほど 流します
雑巾でふきます
キンカクシのうらまで丁寧にふきます
社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます
もう一度水をかけます
雑巾で仕上げをいたします
クレゾール液をまきます
白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
静かな うれしい気持ちですわってみます
朝の光が便器に反射します
クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします
便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません
駅員さんによる労働の詩なんですが、この詩に初めて出会った小学生のとき、強烈な印象を受けました。
それは労働の過酷さと尊さの両面を謳いあげているだけではなく(こういうところには素直に感動する小学生だったので)、最後のパラグラフのところです。
便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません
「美しい」で統一されてるけど、一生懸命労働した報酬は、将来の「美しい妻」なんかい!
じゃあ、結婚相手が「美しくない妻」だったら、がっかりして、報われなかったことになるんだろうか。
それってあんまりじゃないの?
と思ったからです。
まぁ捻くれてるていえば、捻くれてますけどね。小学生の自分。
これが例えば「心根の美しい妻」とかなら、欺瞞的だけど、全然OKだったわけですよ。
詩としては面白くないですけどね。
また「便所を美しくする娘は、丈夫な子供をうむ」ならまだましです。
子どもにまで「美しさ」を求められても。
子どもが産まれるのがどれだけ大変なことか知らない立場のひとの呑気ないい分なように聞こえてしまいます。
しかも「娘」ってなぁ…。
何だかなぁ。幾つぐらいを想定しているか知りませんが、30代後半の出産が20代前半の出産数を軽く凌いでいる時代ですから、子どもを産むのは「娘さん」ばかりじゃないんですよね。
しかも母がいうにはっていうこの調子、何だかこういうことをいう男性と結婚したら、嫁姑問題で苦労しそう(って大きなお世話もいいところ)。
また労働の過酷さに、なんというか、「本来女の仕事」である便所掃除を、「男の僕」がやらされているからこそのなにものかが付加されているような気がして、いっそう何というか。
この詩のだいご味は最終パラグラフでありながら、最後の部分が、心のセンサーにひっくりまくりだったのです。
(左翼の男性とわかりあえないと思う瞬間ってこういうときかも)。
便所を美しくする女は
珠のような子供をうむ といわれることを思い出します
僕は男です
光り輝く妻に会えるかも知れません
母が消えたし、詩としてはパンチがなくなるけど、政治的にはまだbetterになった気がしますが、どうでしょうか?
政治的に正しくなると、本来もっていた「ひとに訴えかける力」がなくなることが問題かも。
その部分がなくなったら、この詩の良さがなくなってしまう、ということは、「女をめぐる常識」を不問に付すことなく再生産して、「労働」について謳っているんだなぁって思うのです…。
(それがどーしたといわれれば、それまでですが)。
「気立てのよいお嫁さんになるのが夢だった私」が、「おばあちゃん」に「毎日きれいにしたら、女神さまみたいにべっぴんさんになれる」といわれて、せっせと掃除をしているトイレの神様。
なんだかこの詩に呼応しているように思えます。
この二人が結婚したら、何だかいいカップルだと思いますが、如何でしょうか(と辛酸なめ子風にいってみる。けど「トイレの神様」の娘さんは「便所掃除」の僕は趣味じゃないので選ばないような気がします)。
死んだおばあちゃんがこういってた、
恩返しもできなかった、
語られる家族の情があまりにストレートなので、泣きにくいです。
植村花菜の堂々とした歌いっぷりが素晴らしく、かえって「確信犯なのかなぁ」と思わされ。
捻くれてますねぇ。
ファンのひと、ごめんなさい。
自炊
この間、仕事で初めてお会いしたひとに、「スケート、好きなんですね」っていわれました。
はっ。そりゃこんなブログばっかりかいていれば(スケートしか書いてない)、そう思われますね…。
といいつつ、鈴木明子が全日本で4位だったため、世界選手権に出られず、悲しみを抑えきれません。
それはさておき。
最近本当に悩んでいるのが本の処遇です。
職場を変わって、自宅と職場の距離が長くなったこともあり、岩波の本を書いているとき1日30冊くらい持ち運んでいたあと腰を悪くしたこともあり、最近は本を2冊買うこともなきにしもあらず(もっている本を書評ほかで頼まれたときに「もっていますからいいです」ともいわなくなりました。両方に置いておく)。
で、あまりの散らかり様に、頭を痛めてます。
研究室もいっぱい。自宅もいっぱい。そして相変わらず本が手元にないので、原稿が書けない状態…。
この状況を打破すべく、PDF化しようかどうか、本気で悩んでいます。
収納場所と、いつでもアクセスできるという点では、本当に素晴らしい。
PDF化していたら、それこそどこでも原稿が書ける、ということになる訳だし。
ただ本を読むという点では、かなり劣るということも否めないですね。
プリントアウトして読んだりするなら、意味がないんですが…。
iPhoneで読んだりするのではなく、読むならiPadとかになるんでしょうけれど…。
もしくはパソコンで読むか(でもパソコンでPDFを読むときはいつもプリントアウトしてしまうのでどうかなと)。
悩みどころです。
皆さん、どうされているんでしょう?
うーん。
最近、原稿を書くのに、何度か青空文庫(著作権切れの本をテキスト化してオンラインに置いてある)を使わせて貰って、本当に便利でした。
『<いき>の構造』なんて、どこにやったかな(古本屋で買って2冊はもっているはず)と思ったら、全文青空で読むことができ、しかもペーストまでできるとは…。本当に感動しました。
九鬼はともかく、古くて手に入れるのが面倒(大学の書庫に行かなきゃいけない)な本がオンラインで読めて、その回の原稿は、自分でもかなりすらすらと書けたのでした。
試しに少しやってみようかなと思います。
はっ。そりゃこんなブログばっかりかいていれば(スケートしか書いてない)、そう思われますね…。
といいつつ、鈴木明子が全日本で4位だったため、世界選手権に出られず、悲しみを抑えきれません。
それはさておき。
最近本当に悩んでいるのが本の処遇です。
職場を変わって、自宅と職場の距離が長くなったこともあり、岩波の本を書いているとき1日30冊くらい持ち運んでいたあと腰を悪くしたこともあり、最近は本を2冊買うこともなきにしもあらず(もっている本を書評ほかで頼まれたときに「もっていますからいいです」ともいわなくなりました。両方に置いておく)。
で、あまりの散らかり様に、頭を痛めてます。
研究室もいっぱい。自宅もいっぱい。そして相変わらず本が手元にないので、原稿が書けない状態…。
この状況を打破すべく、PDF化しようかどうか、本気で悩んでいます。
収納場所と、いつでもアクセスできるという点では、本当に素晴らしい。
PDF化していたら、それこそどこでも原稿が書ける、ということになる訳だし。
ただ本を読むという点では、かなり劣るということも否めないですね。
プリントアウトして読んだりするなら、意味がないんですが…。
iPhoneで読んだりするのではなく、読むならiPadとかになるんでしょうけれど…。
もしくはパソコンで読むか(でもパソコンでPDFを読むときはいつもプリントアウトしてしまうのでどうかなと)。
悩みどころです。
皆さん、どうされているんでしょう?
うーん。
最近、原稿を書くのに、何度か青空文庫(著作権切れの本をテキスト化してオンラインに置いてある)を使わせて貰って、本当に便利でした。
『<いき>の構造』なんて、どこにやったかな(古本屋で買って2冊はもっているはず)と思ったら、全文青空で読むことができ、しかもペーストまでできるとは…。本当に感動しました。
九鬼はともかく、古くて手に入れるのが面倒(大学の書庫に行かなきゃいけない)な本がオンラインで読めて、その回の原稿は、自分でもかなりすらすらと書けたのでした。
試しに少しやってみようかなと思います。
久しぶりにグランプリファイナルについて
来年に非常勤を頼まれて、履歴書を書いていたんですが、このブログの業績一覧、全然更新していないことに気がつきました。とくに書評関係が散逸してしまっていて、掲載号などわからなくなってしまっていて、反省…。
それはさておき。グランプリファイナルが終わり、がっくりと来ています…。
高橋大輔は、本当に調子が悪そうで、4位でも仕方ないなぁという感じでしたが(パトリック・チャンと40点近くの差でしたっけ?←忘れたいので忘れちゃいました(笑))、もう最初のスケーティングから「あ、駄目だ…」と思ってがっくり来てしまいました。
公式練習で転倒のアクシデントとかもあったので、いろいろあったのかもしれませんね。
で、女子なんですが、鈴木明子のファンをしていて、本当に淋しい思いをしています。
まず報道が、村上佳菜子押しなのはわかるんですが、日本人選手が6人出ていて、鈴木選手だけ言及もされないことが多々あるのです。ほんっとにひとりだけ。スピードにおけるヒトエちゃん、タノキントリオ(古い)のよっちゃんのように。
皆が特定の選手だけのファンな訳ではないんですから、そのあたりは、よろしく配慮をお願いいたします、と思います。浅田真央が不調で、その後のアイドルを作りたいという思惑もあるんでしょうけれど、女子はアイドルみたいな報道のされ方ばかりで、演技を楽しみにしているスケートファンとしてはちょっと淋しい。放送されないとまでなると。
鈴木明子は、今季最高の出来だったと思いました。ショートもフリーも、ほぼ完璧に近かったと思うのですよ。でも、ショートでステップがレベル1になったことを荒川静香も「信じられません」といっていましたが、点数があまり思うようにはでずに、残念でした。
もちろん1位のシズニーのスピンは上手いし、2位のコストナーもジャンプの種類は簡単なものが多いとはいえ、手堅くまとめていたし、それぞれ素晴らしかったけれど、やはり日本人選手が3人もいると「難しい」ですよね。国籍を抜いたら、違う採点がでるかもなぁとか思ってはいけないんでしょうか…。
安藤美姫のフリーも、今季は押し並べてよかったけれど、これも今季で最高のフリーだなと思いました。フラットはちょっと残念だったけど(フラットもいつも点が出ないですね。可哀想)、5人の選手のどれも甲乙つけがたい演技だったなって思いました。
個人的には鈴木選手の演技、今季最高のほぼ完璧な出来で、満足です。
でもそれだけに採点が残念だったなぁ…。
またこれからもがんばって欲しいと思います。
それはさておき。グランプリファイナルが終わり、がっくりと来ています…。
高橋大輔は、本当に調子が悪そうで、4位でも仕方ないなぁという感じでしたが(パトリック・チャンと40点近くの差でしたっけ?←忘れたいので忘れちゃいました(笑))、もう最初のスケーティングから「あ、駄目だ…」と思ってがっくり来てしまいました。
公式練習で転倒のアクシデントとかもあったので、いろいろあったのかもしれませんね。
で、女子なんですが、鈴木明子のファンをしていて、本当に淋しい思いをしています。
まず報道が、村上佳菜子押しなのはわかるんですが、日本人選手が6人出ていて、鈴木選手だけ言及もされないことが多々あるのです。ほんっとにひとりだけ。スピードにおけるヒトエちゃん、タノキントリオ(古い)のよっちゃんのように。
皆が特定の選手だけのファンな訳ではないんですから、そのあたりは、よろしく配慮をお願いいたします、と思います。浅田真央が不調で、その後のアイドルを作りたいという思惑もあるんでしょうけれど、女子はアイドルみたいな報道のされ方ばかりで、演技を楽しみにしているスケートファンとしてはちょっと淋しい。放送されないとまでなると。
鈴木明子は、今季最高の出来だったと思いました。ショートもフリーも、ほぼ完璧に近かったと思うのですよ。でも、ショートでステップがレベル1になったことを荒川静香も「信じられません」といっていましたが、点数があまり思うようにはでずに、残念でした。
もちろん1位のシズニーのスピンは上手いし、2位のコストナーもジャンプの種類は簡単なものが多いとはいえ、手堅くまとめていたし、それぞれ素晴らしかったけれど、やはり日本人選手が3人もいると「難しい」ですよね。国籍を抜いたら、違う採点がでるかもなぁとか思ってはいけないんでしょうか…。
安藤美姫のフリーも、今季は押し並べてよかったけれど、これも今季で最高のフリーだなと思いました。フラットはちょっと残念だったけど(フラットもいつも点が出ないですね。可哀想)、5人の選手のどれも甲乙つけがたい演技だったなって思いました。
個人的には鈴木選手の演技、今季最高のほぼ完璧な出来で、満足です。
でもそれだけに採点が残念だったなぁ…。
またこれからもがんばって欲しいと思います。
ご無沙汰しています
ご無沙汰しております。
新学期が始まりました。
夏休みにはアメリカに調査に行き、その後体調を崩し、なんとなく更新もないまま現在に至ってしまいました。
仕事の予定は無謀でしたが(つまりは思ったようには進まなかった…)、今年度中に家族社会学の本を出そうと思っているので、もう少し頑張ってしまいたいです。
9月の22日に、対談本の発売です。
よろしければ是非。
新学期が始まりました。
夏休みにはアメリカに調査に行き、その後体調を崩し、なんとなく更新もないまま現在に至ってしまいました。
仕事の予定は無謀でしたが(つまりは思ったようには進まなかった…)、今年度中に家族社会学の本を出そうと思っているので、もう少し頑張ってしまいたいです。
9月の22日に、対談本の発売です。
よろしければ是非。
喪男の社会学入門 (アフタヌーンKC)
posted with amazlet at 10.09.23
カラスヤ サトシ 千田 有紀
講談社 (2010-09-22)
講談社 (2010-09-22)
GW、終わった
GW、終わりましたね。
期待していたほどは仕事が進まず、がっくりとしていたんですが、それでもかなり気持ちの面ではリフレッシュされたような気がします。昨年度、春休みがほとんどなきに等しかったので、やっぱり疲れていたのかも。
疲れていると頭も回らず、また、気持ちばかりが焦るので、いいことはないですね。
もう少し、本当にのんびりと行きたいと思います(今日は、帳尻をあわすため、頑張って仕事しよう。本当にまるまる1日空いているので、籠ります。籠るときは、ご飯も食べたくない)。
景気づけにblogの更新。
前回も宣言しましたが、ずっとフィギュアについて書くとか何とかいいながら、遅くなりました。
改めてですが、世界選手権、ちょっと感動しました。
高橋大輔。
2位のパトリック・チャンが4回転もたない選手で、楽々と3回転で勝てるにもかかわらず、最初になんと4回転トーループの代わりに、4回転フリップ(誰も試合では成功していない)をもってくるとは。
両足着氷で回転が足りず3回転認定だけど、何とか倒れずに成功し(あまり得点はなかったとは思いますが←調べてない)、優勝しました。
今まで、高橋が4回転、4回転、というのを、「3回転にすれば、勝てるのになぁ」と思っていました。オリンピックのときも、4位との差は本当に僅差だったし、下手をすればメダルを逃した(というか、4回転もちの選手が総崩れしていて、台乗りできたのがすごかった)し、3回転でまとめれば、金のライサチェックに迫る可能性があったと思います。ライサチェックに30点近い差をつけて勝っていることもあったし。なのになぜ?という気持ちに。
グランプリファイナルも、ショートで1位につけていたのに、フリーで4回転で転倒し、ほとんどビリに近い5位(6位は本当にグダグダ)。3回転でまとめたスケートカナダのように、台乗りすることは十分可能だったのに、と思いました。
でも、何というか、世界選手権を見て、「他人との闘いではなく、自分との闘いなんだなぁ。自分が納得のいくことをしたいんだなぁ」と、妙に感動してしまいました。自分が納得のいかないことをして結果を出しても、つまらない。それは何にでも、いえることだと思います。
歴代世界最高得点を叩きだした4大陸選手権のあとの世界選手権で、彼は4回転を失敗し、結局4位に終わりました。コーチだったモロゾフは4回転は1回でいいと主張し、彼は2回入れるといい、揉めたと聞いていますが。しかし、そのとき自分にできることを挑戦し続け、本番で実力を発揮し続けなければ、ここぞという場面でもやはり、実力は発揮できないような気がします(バンクーバーオリンピックでも、ペアの川口が、コーチに従って安全策を取り、演技がグダグダになって、メダルを逃しました。やって失敗したなら納得もいっただろうけれど、という気がします)。
モロゾフは、いつも安全策を取るコーチですが(このあと書いたものが、消えてしまいました。また書きますが、簡単に再現します)、その思想(?)を紹介した本が『キス・アンド・クライ』です。

発売当時はモロゾフ礼讃の雰囲気が強い頃でしたが(織田君の不調もあり、最近は評価ががらっと変わってしまいました。織田君の靴ひもの件、かなりマスコミにも叩かれていましたけど、ちょっと気の毒。万全の構えで臨まなきゃいけないのはもちろんだけど、試合前にいつもと同じようにやりたいという気持ちもわかる。ちょっとしたことでも、気になりだすと、集中力を欠いてしまうことって、ありますよね。一番、気落ちしているのは本人なんだろうけれど、国を背負っているだけに批判されて、可哀想だと思いました)それでも読んだあと、違和感が残りました。
考えすぎる高橋の音楽テープをなくしたことにして、気をそらせたとか、演技前に泣いて爆発すると落ち着く安藤のために、エッジの砥ぎ方を変えて、泣かせたとか、そういうエピソードに疑問符が。
最終的には、選手個人が自分自身を信じて、自立することを目指さなきゃいけないんじゃないのかなぁ。
だって結局は、演技するのは選手本人だもの。
それでもモロゾフは元選手だけに、選手には経験からくる円熟味が必要だけれども、そのことを理解して、獲得する頃には、ピークは過ぎてしまっているということをわかっているのだなぁとも思いました。フィギュアの選手のピークって、20代前半には終わってしまうものなので、本当に何かを得たときには、身体的な技術は劣ってきてしまっているのです。
自分自身のことを考えても(って関係ないけど)、30代は無為に過ごしてしまったなぁと思います。今考えると、いろいろなオファーを戴いていて、恵まれていたんですね(けれど、期待にこたえられなかった)。あの頃は、他人と争ったり、妬まれたり、目立ったりするのが嫌で、自分のやりたいことだけひっそりとやっていたいと思っていました。
嫌味ではなく、本心でいっているのですが、ひとより目立ちたい、勝ちたい、自分が一番で居たい、と思えることって、やはりひとつの才能だと思います。わたしは間違ったことは嫌いだし、嘘はつきたくないとは思います。自分の信念に従って生きたいし、そのためには絶対に自分を曲げたくない。
でも、単に競争になってくると、本当に苦手です…。
争ってくるひとがいると(とくに女性)、どうぞどうぞと(心の中では)譲ってしまう。
そういう意味では、才能がないんだと思います。
でも、人間はいつまでも若くはなく、経験を得る代わりに、いろいろなものを失っていくんだなぁということを最近実感しています。なんといっても、論文を書くのが「体力勝負」だと思うようになったのは大きな変化でした。書きたいことはあっても、体力がついていかない、なんていうことは以前にはなかった。徹夜に徹夜を重ねても書いたものが、今はもう駄目だ、そんなことをしたら死んでしまう、と思ってしまう(実際に、身体によくなく、無理も効かないと思います)。
まぁ、時代はスローライフ、ですからいいのかもしれませんが、でも空前の出版不況で、言論の豊かさも瘦せ細ってきている状況をみると、少しは頑張らないといけないのかなぁと思うのでした。
何だか取りとめもなく。原稿に戻ります。
期待していたほどは仕事が進まず、がっくりとしていたんですが、それでもかなり気持ちの面ではリフレッシュされたような気がします。昨年度、春休みがほとんどなきに等しかったので、やっぱり疲れていたのかも。
疲れていると頭も回らず、また、気持ちばかりが焦るので、いいことはないですね。
もう少し、本当にのんびりと行きたいと思います(今日は、帳尻をあわすため、頑張って仕事しよう。本当にまるまる1日空いているので、籠ります。籠るときは、ご飯も食べたくない)。
景気づけにblogの更新。
前回も宣言しましたが、ずっとフィギュアについて書くとか何とかいいながら、遅くなりました。
改めてですが、世界選手権、ちょっと感動しました。
高橋大輔。
2位のパトリック・チャンが4回転もたない選手で、楽々と3回転で勝てるにもかかわらず、最初になんと4回転トーループの代わりに、4回転フリップ(誰も試合では成功していない)をもってくるとは。
両足着氷で回転が足りず3回転認定だけど、何とか倒れずに成功し(あまり得点はなかったとは思いますが←調べてない)、優勝しました。
今まで、高橋が4回転、4回転、というのを、「3回転にすれば、勝てるのになぁ」と思っていました。オリンピックのときも、4位との差は本当に僅差だったし、下手をすればメダルを逃した(というか、4回転もちの選手が総崩れしていて、台乗りできたのがすごかった)し、3回転でまとめれば、金のライサチェックに迫る可能性があったと思います。ライサチェックに30点近い差をつけて勝っていることもあったし。なのになぜ?という気持ちに。
グランプリファイナルも、ショートで1位につけていたのに、フリーで4回転で転倒し、ほとんどビリに近い5位(6位は本当にグダグダ)。3回転でまとめたスケートカナダのように、台乗りすることは十分可能だったのに、と思いました。
でも、何というか、世界選手権を見て、「他人との闘いではなく、自分との闘いなんだなぁ。自分が納得のいくことをしたいんだなぁ」と、妙に感動してしまいました。自分が納得のいかないことをして結果を出しても、つまらない。それは何にでも、いえることだと思います。
歴代世界最高得点を叩きだした4大陸選手権のあとの世界選手権で、彼は4回転を失敗し、結局4位に終わりました。コーチだったモロゾフは4回転は1回でいいと主張し、彼は2回入れるといい、揉めたと聞いていますが。しかし、そのとき自分にできることを挑戦し続け、本番で実力を発揮し続けなければ、ここぞという場面でもやはり、実力は発揮できないような気がします(バンクーバーオリンピックでも、ペアの川口が、コーチに従って安全策を取り、演技がグダグダになって、メダルを逃しました。やって失敗したなら納得もいっただろうけれど、という気がします)。
モロゾフは、いつも安全策を取るコーチですが(このあと書いたものが、消えてしまいました。また書きますが、簡単に再現します)、その思想(?)を紹介した本が『キス・アンド・クライ』です。

発売当時はモロゾフ礼讃の雰囲気が強い頃でしたが(織田君の不調もあり、最近は評価ががらっと変わってしまいました。織田君の靴ひもの件、かなりマスコミにも叩かれていましたけど、ちょっと気の毒。万全の構えで臨まなきゃいけないのはもちろんだけど、試合前にいつもと同じようにやりたいという気持ちもわかる。ちょっとしたことでも、気になりだすと、集中力を欠いてしまうことって、ありますよね。一番、気落ちしているのは本人なんだろうけれど、国を背負っているだけに批判されて、可哀想だと思いました)それでも読んだあと、違和感が残りました。
考えすぎる高橋の音楽テープをなくしたことにして、気をそらせたとか、演技前に泣いて爆発すると落ち着く安藤のために、エッジの砥ぎ方を変えて、泣かせたとか、そういうエピソードに疑問符が。
最終的には、選手個人が自分自身を信じて、自立することを目指さなきゃいけないんじゃないのかなぁ。
だって結局は、演技するのは選手本人だもの。
それでもモロゾフは元選手だけに、選手には経験からくる円熟味が必要だけれども、そのことを理解して、獲得する頃には、ピークは過ぎてしまっているということをわかっているのだなぁとも思いました。フィギュアの選手のピークって、20代前半には終わってしまうものなので、本当に何かを得たときには、身体的な技術は劣ってきてしまっているのです。
自分自身のことを考えても(って関係ないけど)、30代は無為に過ごしてしまったなぁと思います。今考えると、いろいろなオファーを戴いていて、恵まれていたんですね(けれど、期待にこたえられなかった)。あの頃は、他人と争ったり、妬まれたり、目立ったりするのが嫌で、自分のやりたいことだけひっそりとやっていたいと思っていました。
嫌味ではなく、本心でいっているのですが、ひとより目立ちたい、勝ちたい、自分が一番で居たい、と思えることって、やはりひとつの才能だと思います。わたしは間違ったことは嫌いだし、嘘はつきたくないとは思います。自分の信念に従って生きたいし、そのためには絶対に自分を曲げたくない。
でも、単に競争になってくると、本当に苦手です…。
争ってくるひとがいると(とくに女性)、どうぞどうぞと(心の中では)譲ってしまう。
そういう意味では、才能がないんだと思います。
でも、人間はいつまでも若くはなく、経験を得る代わりに、いろいろなものを失っていくんだなぁということを最近実感しています。なんといっても、論文を書くのが「体力勝負」だと思うようになったのは大きな変化でした。書きたいことはあっても、体力がついていかない、なんていうことは以前にはなかった。徹夜に徹夜を重ねても書いたものが、今はもう駄目だ、そんなことをしたら死んでしまう、と思ってしまう(実際に、身体によくなく、無理も効かないと思います)。
まぁ、時代はスローライフ、ですからいいのかもしれませんが、でも空前の出版不況で、言論の豊かさも瘦せ細ってきている状況をみると、少しは頑張らないといけないのかなぁと思うのでした。
何だか取りとめもなく。原稿に戻ります。
新自由主義の文法
なかなか思うようにいろいろなことが進まないなか、やっと一本、論文が出ました。
「新自由主義の文法」で、『思想』の5月号に掲載です。
他の方々がちゃんと「思想」を論じていらっしゃるので、何だか浮いているなぁと思うと同時に、プロットを作ったのが2005年なので(2005年に読んだダガンの『The Twilight of Equality 平等の黄昏』が面白く、そのときに作った骨子、そのまま)、2005年に出したかった、5年後の今、新自由主義についての理解はほとんど「常識」となっているのではないかという気持ちがしなくもないのですが、でもとにかく、書く機会を戴いて感謝しています。
社会学は時代の学問なので、書く機会を逸してしまうと、本当に意味がなくなってしまうものが多々あり。
わたしは、仕事の依頼があったときに、だいたい瞬時に、「こう書こう」という目次の章立てがほぼ浮かぶのですが、その章立てを何度も頭の中でなぞっていると、次第に書けなくなってしまいます。新鮮味がなくなるというか、勢いがなくなるというか…。一度頭の倉庫に入ってしまった論文を、引き出してくるのはかなり大変かも。朝起きた時に、もう1文字たりとも動かないという状態で頭のなかに文章が組み立てられていることもありますが、そこまでいってしまうと、そのとき書かなければ、再現することは不可能かも。
今その状態にある論文がひとつだけあって、本当に心苦しいと思っていると同時に、自分でも辛いです…。このGWに本当に終わりにしてしまいたい。
それはさておき。前回はオリンピックについて書いたのですが、いつの間にか世界選手権も終わり、スケートのシーズンも終わってしまいました。何だかスケートのことばかり書いていますが(なぜならスケートに関しては、もちろん原稿依頼などないので、このblogでくらいしか、書く場がないからですけど)。
何だか力尽きたので(毎回これですね)、次回に譲ります。次こそ、高橋大輔とモロゾフと、フィギュアの採点について、書きます。
「新自由主義の文法」で、『思想』の5月号に掲載です。
他の方々がちゃんと「思想」を論じていらっしゃるので、何だか浮いているなぁと思うと同時に、プロットを作ったのが2005年なので(2005年に読んだダガンの『The Twilight of Equality 平等の黄昏』が面白く、そのときに作った骨子、そのまま)、2005年に出したかった、5年後の今、新自由主義についての理解はほとんど「常識」となっているのではないかという気持ちがしなくもないのですが、でもとにかく、書く機会を戴いて感謝しています。
社会学は時代の学問なので、書く機会を逸してしまうと、本当に意味がなくなってしまうものが多々あり。
わたしは、仕事の依頼があったときに、だいたい瞬時に、「こう書こう」という目次の章立てがほぼ浮かぶのですが、その章立てを何度も頭の中でなぞっていると、次第に書けなくなってしまいます。新鮮味がなくなるというか、勢いがなくなるというか…。一度頭の倉庫に入ってしまった論文を、引き出してくるのはかなり大変かも。朝起きた時に、もう1文字たりとも動かないという状態で頭のなかに文章が組み立てられていることもありますが、そこまでいってしまうと、そのとき書かなければ、再現することは不可能かも。
今その状態にある論文がひとつだけあって、本当に心苦しいと思っていると同時に、自分でも辛いです…。このGWに本当に終わりにしてしまいたい。
それはさておき。前回はオリンピックについて書いたのですが、いつの間にか世界選手権も終わり、スケートのシーズンも終わってしまいました。何だかスケートのことばかり書いていますが(なぜならスケートに関しては、もちろん原稿依頼などないので、このblogでくらいしか、書く場がないからですけど)。
何だか力尽きたので(毎回これですね)、次回に譲ります。次こそ、高橋大輔とモロゾフと、フィギュアの採点について、書きます。
オリンピック、終わった。
世界選手権に鈴木選手が出られるそうなので、本当によかった。
辞退する中野選手には気の毒だけど(本当にお疲れ様)、仮にもオリンピック選手で、あと何年現役を続行できるかわからない選手が、世界選手権のメダルがないどころか、出たこともないというのは、本当に気の毒だと思ったので。
もう一度、プログラムがみたいなぁと思ったので、嬉しい。
(中野選手は、今季のプログラムがよくなかったと思う。とくに火の鳥のようなプログラムは、音楽は好きなんだけど…。衣装も「女性らしい」感じで、もう少し物語性のあるもののほうが(ジゼルやSAYURIのような)、点が出たような気がする)。
オリンピックのフィギュアの女子は、鈴木明子選手が滑り終えた時点で、自分では燃え尽きてしまったので、結構あとは淡々と。SPで浅田→金→鈴木の滑走順は、あまりに気の毒だったんだけど、フリーはよかった。華のある、踊れる選手だなぁと思う。
ところで、浅田真央、銀メダルでしたね。
銀メダルで「残念」といわれるっていうのも、可哀想だなぁと思ったけど、金浅田対決、居心地の悪い思いがします。
浅田選手に関しては、いつもそうなんだけど、韓国対日本の歴史的な経緯とは離れて、浅田選手については語れないので(ネットにあげられる動画ほかも、かなり「政治的」なものが多くて、うんざりします)、つねに居心地の悪い思いから逃れられないですね。今のスポーツが国の代表という制度をとっている限りそうなのかもしれませんが。
そういうものから離れていうと、わたしは浅田真央が気の毒だと思いました。
キムヨナのジャンプも素晴らしいものであるのは認めますが、20点も点差がでるようなものなのかどうか…。
「現行のルール」の枠内では、三回転アクセル、点数がでませんけど(キムヨナのジャンプのつくGOEの加点で、すべてがチャラになり逆転される程度のもの)、世界でオリンピックでは伊藤みどりと浅田真央しかできない技を3回も入れて(つまり男子の4回転なんかよりもずっと希少性が高いのに)、あの点数かぁ…と思うと、あまりに気の毒です。
キムヨナのプログラムは、圧倒的にショートの「007」(フリーは印象に残らない)のほうが、かなりの印象を与えたと思いますが、わたしはあのプログラム、正直言って、苦手です。大衆的な人気が出るのはわかりますが、19歳の少女がボンドガールを演じて、肩からくねくねと(ごめんなさい…)踊り、スカートを捲ってみるのを、「表現力」といえるのかなぁ。皆は居心地悪いと思わないのでしょうか? わたしは、思わず目をそむけたくなる気がします(キムが納得してやっていたとしても)。なんというか、勝手に痛々しく思ってしまうのですが。まぁ、大きなお世話ですけどね。
たいして、浅田の「鐘」、浅田に滑りこなすだけのなにものかが備わっていないという手厳しい意見も多かったなか、わたしは素晴らしかったと思います。高難度のジャンプに、ぎちぎちに繋ぎを入れた、ハイレベルなプログラムというだけではなく、完璧に近い(途中ジャンプのミスはありましたが)仕上がりでは、胸に迫るものがありました。ただ、点が取れるプログラムかというと、浅田の技術が生かされなかったし(芸術的だけど、タラソワコーチは、新採点システムに対応していないと思います)、イメージにもあわず、決して「音楽が後押ししてくれる」ようなプログラム(例えば鈴木のウエストサイドのような)ですらない。オリンピックシーズンでは、今の浅田には、重すぎたと思う。わたしも途中、変えたほうがいいと思った。でも、そうわかりながらも、きちんと滑り切った浅田には、拍手を送りたい。素晴らしい出来栄えでした。
と思うのですが。何が嫌って、スケートをよく知らないひと(いや、わたしも知りませんけど)が、「浅田なんて、まだまだ、ダメだね。キムヨナは本当に素晴らしかった」と評価するときの、「韓国選手を応援できる自分はラディカルでリベラルな人間だ」という自意識が、鼻につくんですよ(ああ、ごめんなさい〜)。かといって、「キムヨナなんて、八百長だ。浅田が一番!!」と根拠なく、「浅田だったら、何でも素晴らしい!!」と鼻の穴をふくらませるひととも一緒にされたくない(わたしもジャンプのGOEは出すぎだと思いますが)。
そういう政治から離れて、ひっそりと浅田選手を祝福したいと思います。
辞退する中野選手には気の毒だけど(本当にお疲れ様)、仮にもオリンピック選手で、あと何年現役を続行できるかわからない選手が、世界選手権のメダルがないどころか、出たこともないというのは、本当に気の毒だと思ったので。
もう一度、プログラムがみたいなぁと思ったので、嬉しい。
(中野選手は、今季のプログラムがよくなかったと思う。とくに火の鳥のようなプログラムは、音楽は好きなんだけど…。衣装も「女性らしい」感じで、もう少し物語性のあるもののほうが(ジゼルやSAYURIのような)、点が出たような気がする)。
オリンピックのフィギュアの女子は、鈴木明子選手が滑り終えた時点で、自分では燃え尽きてしまったので、結構あとは淡々と。SPで浅田→金→鈴木の滑走順は、あまりに気の毒だったんだけど、フリーはよかった。華のある、踊れる選手だなぁと思う。
ところで、浅田真央、銀メダルでしたね。
銀メダルで「残念」といわれるっていうのも、可哀想だなぁと思ったけど、金浅田対決、居心地の悪い思いがします。
浅田選手に関しては、いつもそうなんだけど、韓国対日本の歴史的な経緯とは離れて、浅田選手については語れないので(ネットにあげられる動画ほかも、かなり「政治的」なものが多くて、うんざりします)、つねに居心地の悪い思いから逃れられないですね。今のスポーツが国の代表という制度をとっている限りそうなのかもしれませんが。
そういうものから離れていうと、わたしは浅田真央が気の毒だと思いました。
キムヨナのジャンプも素晴らしいものであるのは認めますが、20点も点差がでるようなものなのかどうか…。
「現行のルール」の枠内では、三回転アクセル、点数がでませんけど(キムヨナのジャンプのつくGOEの加点で、すべてがチャラになり逆転される程度のもの)、世界でオリンピックでは伊藤みどりと浅田真央しかできない技を3回も入れて(つまり男子の4回転なんかよりもずっと希少性が高いのに)、あの点数かぁ…と思うと、あまりに気の毒です。
キムヨナのプログラムは、圧倒的にショートの「007」(フリーは印象に残らない)のほうが、かなりの印象を与えたと思いますが、わたしはあのプログラム、正直言って、苦手です。大衆的な人気が出るのはわかりますが、19歳の少女がボンドガールを演じて、肩からくねくねと(ごめんなさい…)踊り、スカートを捲ってみるのを、「表現力」といえるのかなぁ。皆は居心地悪いと思わないのでしょうか? わたしは、思わず目をそむけたくなる気がします(キムが納得してやっていたとしても)。なんというか、勝手に痛々しく思ってしまうのですが。まぁ、大きなお世話ですけどね。
たいして、浅田の「鐘」、浅田に滑りこなすだけのなにものかが備わっていないという手厳しい意見も多かったなか、わたしは素晴らしかったと思います。高難度のジャンプに、ぎちぎちに繋ぎを入れた、ハイレベルなプログラムというだけではなく、完璧に近い(途中ジャンプのミスはありましたが)仕上がりでは、胸に迫るものがありました。ただ、点が取れるプログラムかというと、浅田の技術が生かされなかったし(芸術的だけど、タラソワコーチは、新採点システムに対応していないと思います)、イメージにもあわず、決して「音楽が後押ししてくれる」ようなプログラム(例えば鈴木のウエストサイドのような)ですらない。オリンピックシーズンでは、今の浅田には、重すぎたと思う。わたしも途中、変えたほうがいいと思った。でも、そうわかりながらも、きちんと滑り切った浅田には、拍手を送りたい。素晴らしい出来栄えでした。
と思うのですが。何が嫌って、スケートをよく知らないひと(いや、わたしも知りませんけど)が、「浅田なんて、まだまだ、ダメだね。キムヨナは本当に素晴らしかった」と評価するときの、「韓国選手を応援できる自分はラディカルでリベラルな人間だ」という自意識が、鼻につくんですよ(ああ、ごめんなさい〜)。かといって、「キムヨナなんて、八百長だ。浅田が一番!!」と根拠なく、「浅田だったら、何でも素晴らしい!!」と鼻の穴をふくらませるひととも一緒にされたくない(わたしもジャンプのGOEは出すぎだと思いますが)。
そういう政治から離れて、ひっそりと浅田選手を祝福したいと思います。




















